昭和44年10月13日 朝の御理解



 御理解 第29節
 「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」

 こうして、例えば御理解を頂きます。御理解を受ける、例えば「この29節」だけでも、もう何回頂いたか分からない位に、何回も頂いております。けれども不思議にこの、私共の信心が日々稽古されて行くと言うか。日に日にさらというか、日にさらの信心を、こうしてさせて頂いておりますと、頂く度にその内容が違う、受ける感じも違う。例えば私が只今桜の花の信心よりとこう、その29節を頂いて、これをこうして読ませて頂いた時に皆さんが感じられた事。
 あぁ又あの桜の花の信心の御理解かと思われた者はなかろうと思う。その例えばこう、奉読させて貰います、それを聞かせて頂いてから、何かピンと来るもの。自分の信心と照らし合わせて見てから、何か知らん、その言葉には表現出来なくても、何かピンと来る様なものがね、あるんじゃないかとこう思う。私も読ませて頂きながら、それを感ずる。あぁ又「29節」かと思わない。そこにね私はこの、信心の有難さと言うか、生き生きした信心を頂いておると同じ。
 例えば御教えでも言わば新たな味わいを持って頂く事が出来る。どうでしょうかあぁ、又あの「29節」かとはいう人は必ず眠気が来るでしょう。頂いても大した事はないです。それは丁度おなかの大きい時に、御飯を勧められる様なものだと、私は思うです。こちらの心が生き生きとこちらの心がそれを頂く。成程繰り返し繰り返し頂いてもです、こちらの信心が、いわゆる生き生きとした信心をさせて頂いておるなら。
 それを頂く味わいっていうものは、丁度私共が三度、三度お食事を頂かせて頂くけれど、矢張り度々が美味しいと思うのと同じじゃないでしょうか。もし美味しくないともうさっきから食べたばっかりだと言った様な風でしたらですたい。それはどこかおかしいです。運動不足であるか、または体に変調がある時です。ですから私共がねこうして繰り返し繰り返し頂きますその御理解を御教えを頂きます時にですね、又かと云う様な気分がもし出るとするなら是は自分の信心を一つ検討してみなきゃいけません。
 是りゃどこにかちょっと疾患が出来てる。と云う様な頂き方をしなければいけん。また同時に、ここでこうやって頂きます御理解、御教えっていうのがですね。先月なんか、同じ所を、二日も続いて頂いたんですけれども、決して、やっぱ同じ事じゃなく、内容が違う。今日の例えばこの29節のこの御理解を聞かせて頂いて、先ず第一にです。何とはなしに、ピンと来るもの。それがおかげである。はあ私の信心はこれは、桜の花の信心より、梅の花の信心をせよと仰るが。
 より梅の花のおかげがいるなら、梅の花の信心に欠けておるのじゃなかろうかと、と言った様なものを、先ず感じ。今日はあの何時もね、桜の花の様な信心。桜の花の様な華やかなおかげ。このおかげを願っていない者はない。けれども内容は、言うならば梅の花の様な信心でありたい。柳の様な素直さでありたいと言った様な意味で頂きますけれど。今日は私此処ん所をですね、桜の花の信心より梅の花の信心をせよと仰る、その桜の花の信心は、早う散るとこう言うておられる。早う散るね。
 それは何故かと言うと、梅の花の信心は、梅の花は長う苦労しておるから散らんと仰る所からですね。言わば桜の花の信心は、苦労なしの信心だという風に、今日はこうして頂いて頂きたいと思う。苦労のない信心。それから梅の花の信心は苦労しておる。苦労が伴うておる信心。そういう風に、大体今日は頂いて頂きたいと、こう思うんです。ですから言うならば、皆さんの信心は、こうして朝参りでもなさる。
 眠いとか暑い、寒いを克服して、この朝参りでもさせて頂いておられると言うのですから、是はもう間違いなしに苦労の裏付けのある信心であると云う事を、私は思いますね。そこで、それをもう少し検討して行かなければいけんのです。例えて言うと、まあお日参りと。いわゆる、毎日お参りをさせて頂いておるけれども、朝参りに参って来るというのと、自分の都合の良い時間に参って来るというのとは、大変な違いです。
 御理解を受ける、御教えを頂くと言うても、こうしてテープにとって御座いますから、私がお話をした事が、そのままそっくり、いつ来てもテープを通して聞かれるの。レコーダーを通して聞かれるのです。はあ、今日の御理解は有り難かった、今日の御理解によって分からせて頂いたという事においては、一つも同じ事変わらん。してみると、昼頃、自分の都合の良か時に参って、テープで御理解を頂いても良いようなもんですけれどもです。同じ言うなら同じようでありますけれどもです。
 今日の御理解から頂くと、言うならば、それは苦労のない信心であり、桜の花の様な信心だと言う風に頂かなければならんのじゃないでしょうか。同じ信心でも、いわゆる修行が伴っとる。信心というものは、もう決して気分でするもんじゃない。今日は気分がいいから朝起きしようかと、朝参りしようか、という人もありますけれど、それではいけん。朝参りをさせて頂こうと決めたら、もう本当にそれを、に徹し抜く所に信心の修行があるのです。しかもそれには修行が伴うておる、修行の裏付がある。
 苦労しておるからと云う事。苦労と云う事は、だから是は修行と云う事だと思うんです。梅の花は確かに修行しておる寒中に蕾を持ちます。しかももうまだ雪も解けないと云う位な所から、ボチボチこう「綻びかかって」参ります。何とも言えん馥郁とした香りが、周囲に漂う程になります。私共の信心の内容というものが、そのような、その雰囲気を持ちたいと思うですね。
 辛抱しとれば、苦労しておればですね、益々この何か知らんけれど、こう我が強うなると言った様な感じでしたですね。 私がこれ程辛抱しておるのに、俺はこんなに修行しておるのに、お前達は楽に、皆さんが朝参りを終わって帰られると、まだ家では寝ておる者も居るかも知れません。俺はもうこんだけ一生懸命修行しよるとに、お前達はまだ寝とる。そう言う様な事であったら、もう修行の値打ちがないのですよね。
 まして信心が、ならどう言う様な目指しの元に信心がされるか、信心の稽古が出来るかと言うとですね。わが心でわが身を救い助けよと仰る。御神訓に御座います。わが身わが心。わが身はわが心で救い助けよと。二代金光様は、おかげは神から出ると思うなと仰る、氏子の心から出るのじゃと。又ある人は神様を、信心の稽古と言うのは神様を拝む稽古ではなくて、吾とわが心が拝まれ、自分ながら自分の心が拝みたい様になる稽古だと、も言うておられます。
 信心とはそれですから。わが身はわが賀心で救い助けて行かなければならん。その為の修行である、信心ってのは。おかげは神から出ると思うな、わが心からおかげは出るのだと、二代金光様が教えておられるように。信心はどこまでも、神様を拝むと。成程これは大事である。拝む事は宗教から抜く事は出来ません、祈念祈りという事は。けれども、それはね、神様を拝んでるんです、確かに。けれどもそれを、煎じ詰めると、吾とわが心を拝ませて頂けれる為の、一つの過程なんです。
 一心不乱に神様を拝む、一心不乱に拝む。昨夜はこんな事があった。あんな事は初めてだった。迂闊と言やあ迂闊。夜の御祈念にかからせて頂いた。天津祝詞を奏上して、しばらく御祈念をさせて頂いて、拝詞を何時も奏上させて貰います。所が祖先賛辞を私は上げてるんです神様の前で。代々の親はと言って。そしてから、途中でコッと気がついたんです。是はあぁ、大変な事だと、もうちょっと思ったんですよね。
 神様の前で祖先賛辞上げとる。ところがその、私が上げておるその祖先賛辞に、後ろの方で御祈念しておる人達も、矢張りそれに唱和する様に、ね、矢張り一心不乱に祖先賛辞を上げてるんです。私も、気が付かないままに一生懸命、祖先賛辞を上げてるんです。その時私は思いましたですこれで良いのだと。祖先賛辞は成程、御霊様へお供えをする、言うならばお祝詞です。けれども、そこには御霊様もなからなければ、神様もない。同時に人間氏子は、私もない。三者が一体になって、祖先賛辞を上げておる。
 だから、神様の前で、神様に礼拝させて頂いとるけども、それは御霊様も聞こし召しておられるという事。いやあ今日は縁起でもない、神様の前で祖先賛辞上がったなんていう風に、まあ、その、引っかかった考え方をした時代もあった、あるかも知れませんね、皆んな。けれども夕べそんな御理解頂いてから、本当に信心とはそれだなあ。だから、私昨日、夕べ申しました。天津祝詞とか、大祓いとか、長々と上げると云う事。
 覚えそれはね、自分の心がですね、神に向かうと云う事は、拝んでおる内に何とはなしに、自分で自分の心が拝みたいごとなって来るとですよ。祈念、御祈念の私は、値打ちはそれなんだ。仏教なら、仏教で言うなら鐘を叩いたり、木魚を叩いたり。コツコツコツと言うてその、木魚を叩いてから、南無阿弥陀仏を唱えてる内にです、もう仏と一体になれる。仏と一体になれると云う事は、もう和賀心がすでに仏なのだ。もうこれ以上、悪い事だん考えられない。
 おかげで、心配も不安もなくなってくる。成程そこからおかげが生まれて来る。 成程、和賀心から出て来るんだなと云う事が分かるでしょう。ですから必ずしもお経、経文事はいらん、祝詞事はいらん、大祓い事はいらん。いろはにほへとでも良かりゃ、一、二、三、四を唱えておってもいいんだと。私、夕べそんなに、皆さんに聞いてもらった。一、二、三、四、五、六、七、八・・・それを唱えても良いんだと。勿論それは経文には経文の有り難い、その内容という物があります。
 大祓いには大祓いの矢張りその一つの真理の、を言葉に表した物だと言われておりますから。それはその言葉そのものが言わば素晴らしい言葉であります。例えば腹立たしい時に使うその言葉と、嬉しい時に使う言葉は違うでしょうが。のようにですね矢張り嬉しい時に使う言葉の方が自分だけではなくて、人にまであの幸せを持たらす事が出来る様にですね、それは違いますけども今日私はその神と一体になれる。
 成程信心は神様を拝む稽古ではなくてです。拝む稽古もするけども、結局は自分自身の心が拝みたい様な私になる事の稽古なん。そこにすでに、わが身はわが心で救い助けておる。そういう、例えば意味合いにおいてです、だから御祈念を例えばなさるでもです、そういう目指し。本当に、一心不乱に神様に向かわせて頂く為に、まず祝詞を覚えなきゃいけない事になりますね。
 それが、空念仏的なものであっても、もちろんなりません。一心不乱に祝詞を奏上させて頂いておる内に、自分の心の、まあ言うなら邪悪な物と言うか、不純な物が、こう清められて行く気がする。その清められる心におかげがある。温室に咲く花も自然に、例えば、その時期に咲く花も。花その物は、大して変わりはありません。今時はもう、お野菜なんかでもそうですね。もう季節感というものが、だいぶ無くなったです。かぼちゃが出る、なすびが出る。
 もうそれではあ夏だなとか秋だなとか。そういう風に感じたもんですけれど、この頃はもう四季を通してどんな物でも出来る。温室作りですかそれでいて本当に季節の物のように、形の上だけはしております。所が何と言うても矢張り季節の物が美味しいですね。例えばその、暑さ寒さを耐えた物でなからなければ本当の味はない。特に冬に作るその白菜なんかそうですね。今頃もう白菜のお漬物なんかが出てます。白菜とはもう冬しか出けん物のように思うておったけれどそうじゃない。
 ビニールなんかで、こうやって。して、白菜を作る。普通は矢張り丁度寒い時に出ける。いわゆる、あの寒い、冷たい中に、もう霜をかぶって、もう上の、上の方の畑は、もう真っ赤に枯れてしまう、霜の為に、矢張り霜がうつと言うか、霜が掛ったお野菜が美味しいと言われております。また美味しいです。まだ、霜のかかるごとならなきゃ美味しゅうなかって言うですもん。
 そういう一つの理をですね、そういう理がある所から、成程梅の花の信心でなからなければ、本当の味わいって云う事はないと云う事が分かる。折角させて頂くなら、桜の花の信心より、だから梅の花の信心をせにゃいかんという事が分る。形の上においては、同じ様であっても。味が違う。しかも教祖は其処ん所をです、長う苦労しておるからと仰るその、その修行が尊いのである。
 ですからね分かると云う事においては、お参りをしておると云う事においては、例えば御用させて頂いておると云う事においては。御初穂ならお初穂の内容と云う事においては、同じなんだ、いつ参っても。最近のようであると、テープにこうしてお話を取りますから。朝の御理解がそのまま、それこそ咳払いまで入ってるです。だからもう同じ。こんな便利な事はなくなった訳です、所がですそうして分かって行く事も同じなんだけれどもです。ならいよいよん時になった時に、それが現われて来るです。
 何かに直面した時です。苦労しておる人の信心と苦労なしのいわば温室育ち的な信心とはもう、もう愈々の時にだためが違う程に変わって来る。そこで私はここ思われる事なんですけれども。そんなら自分は毎日、朝参りをさせて頂いておるから、朝の朝参りという苦労をさせて頂いのです。問題はお参りをしておる内容です。成程それぞれの悩みを持たない者はありません、願いを持たない者も、勿論ありません。
 そして神様が分かれば分かる程、矢張り願わなければおられんのであり、縋らなければおられんのが、神様なんです。これは神様を分かれば分かるどそうなんだ、すがらなければおられん。分かると云う事は、神様のお働きと言うか、力という物が分かれば、分かる程ですよね。同時に今度は、自分自身というものがです、障子一重がままならぬ人の身であるという自覚ですかね。障子一重がままならんのが、人間だと。
 まあ一つの無常観ですよね。いわゆる、本当を言うたら、人間、私共では何も出けないちゅう事なの。是が障子一重がままならぬ人の身だと云う事。自分で何が出来るか、何( ? )でも出来ない。そしてその出けておると云う事はね、出けさせられておるのだ。神様のおかげを頂かなければ出来んのだと。こうして扇一つを持たせて頂くでも、私が持って居る様であるけれども、持たされておるのだ。皆さんがこうやって朝参りをして来ておるけれども、参らされておるんだと。
 はあ眠かつを辛抱して、矢張り参って来た。私はもう自動車で参って来た、自転車で参って来たと言うてもです。よくよく煎じ詰めて見ると、自転車に乗せて来らせて頂いたのであり、自動車に乗せて来らせて頂いたのであり。言うならばお許しを頂いて、お参りが出けたと云う事になるのです。まあ例えばなら、私がこのおへぎを、こうやって自分で持っておるようにあるけれども、なら私がもし中風になってご覧なさい。これ一つが持てんのです、持とうと思うても。
 だから今まで健康であったようにあるけれども、その健康というおかげを頂いておるから、これが持てたんだ、自動車にも乗れたんだ、自転車にも乗れたんだという事になるのです。ですから、本当に、いわゆる吾無力であるという事が分かる。障子一重が、成程ままならぬ人の身である。それが人間の実態なのだと。人間の実態を追求する。同時にそこに無限力、もう限りない力、限りなき英知を持ってお出でられる所の神様にすがらなければおられんのが、大体は人間なん。
 それを神様てん仏様てん、自分の力でなんて言う人の上に、絶対の幸せは許されないです。それは出来るかも知れません、様々な事が。けれども、人間の真実の幸せというものは、許されない。この神様のおかげを頂かなければ、この神様のおかげを、によらなければ、言うならここ一寸が動かれん私達であるという自覚に立ってです。しかもその神様が無限力の、の働きを持って御座る。
 限りないおかげを持って御座る神様であるとするならです、私共の健康の鍵を握って御座る神様、幸福の鍵を握って御座る神様である事が、分かれば分かる程です。この神様に平身低頭縋らなければ居られない事になる。んならこの神様のおかげを受けるには、なら、どの様なあり方にならせて頂いたら良いかと言うと、その受けていく色々な手段、手立てというのはあります。
 桜の花の信心だからおかげを受けられんと云う事はないけれどもです。折角するなら梅の花の信心をさせて頂けとこう言うのである。その梅の花の信心苦労を伴うたと言うか、修行が伴うた信心である。そしてなら目指す所が何処にあるか。願いは持っておる悩みはあるけれども、その悩みを解決する事の為だけの、このおかげば頂かんならん事のための。昨日伊万里からお参りをして見えた3~4人連れの方がありました。
 初めてお導きを頂いて参って来た親子三人で、竹内先生ん所でお話を頂いてそういう有難い神様なら、どうでも私を連れて参って下さいと言うので、昨日池田さんがお導きして参って来とられる。それはどう言う様な事かと言うとその小学校の3年生かね。息子さんが、小児喘息である。両親が言われる。もうこの子が小児喘息のこのおかげが頂けたら、他には何もいりませんちゅう事。それが親の情です。だからそげなこまか事言いなさいますなち、私が申しました。
 小児喘息だけで、ええっちゅう事なかて。小児喘息良うなったら今度は又、人間ってものは限りなく矢張り欲、欲という物はあるんですから。そげな事っじゃいかん。言うなら子供が健康になりさえすりゃ、両親はもう本当に、今のその方達親子3人の場合はです、この子供が小児喘息から救われたら、私共の一家にはそれこそ、春の花が咲いたように幸せに成る様に思うておる。
 してみると、私共が健康でですね、親子5人なら、5人の者が健康で、おかげを頂いておると云う事は、本当言うたらその様に有難い物でなかにゃいかんですよね。健康であると、当たり前のように思う。子供、子供がその喘息で咳き込む時にはもう、それこそ自分が咳き込まれとるように思う。だから夫婦の者が、この子の喘息さえ治りゃ、他には何もいらん。私共の幸せはもう、それ一つに掛けられておる様にある。
 そして段々お話を頂かせて貰うとです、この神様の有難い事が分かったから、今日はお導き頂いてお参りをして来たと言うのである。成程だから私がお願いをしましょうと。喘息の事は、私がお願いを致しましょうから、あなた方は喘息だけの事じゃない、まだ願わんならんち言って、しゃっち願わんならん事もないけれど。信心に、子供の喘息によって、お道の信心が分からせて頂くと云う事。それによって、本当の幸せを頂いて行く事の為の、信心しよりなさいと、昨日お話をした事です。
 昨日がその、御理解の、人が助かると云う事。人の難儀が助けられるという事を。是は人間だけが持つ物である。牛やら馬やら、自分の子供が水に溺れておっても助ける事は出来ん。人間が見ると、それを助ける事が出来る。その助ける事が出来る事を、有り難いと心得て信心せよと、こう仰る。ですから私共がですね、相手が助かる様な思い方、感じ方。私は昨日のその、そこんとこを頂いてから、ははぁ人が助かると云う事は、こんな事だと思うたです。
 だから、そういう例えば、その感じ方が出来るのが、成程牛やら馬では出来んのであって、是は人間だけが出来るんだと。人が助かる、人が楽になる様な考え方。所がそういう考え方があるのにも係らず、それを考えようとも、精進しようともしない物が、沢山あるという事。自分がこういう考え方になったら、この人が楽になるんだという意味のお話をさせて頂いた。そして先日からおかげを受けた人の話をさせて頂いた。小さい子供なんです。秋永嘉朗さん所の娘に、私が話したお話なんです。
 最近顔にこの、白くもと言うですかね、白いこうしらくの様な物が出来る。いくらそのお願いしても良くならん。だから昨日朝、朝の御祈念に昨日参って来てました、早うから。ほれでその、まあ自分でお願いをするとこう云う訳で、母親と一緒に出て来てからそのお願いをするんです。それで私が、雅代ちゃんに私が言うんですよ。今まで毎朝起きたら顔を。水道の水で洗いよったね今までは。水道の水で顔を洗いよった。
 だから先生が、あんたの「しらくも」の事はお願いするからね、これから御神水で顔わにゃいかんばい、ご神水で顔洗わじゃんいかん。だから、もう形の上においては、水道の水であるけれども、今までは水道の水と思いよったのを、これは御神水と思うて顔を洗うんだ。そういう思い方が出けるのが人間だと言うて、お話をしたんですよ子供に。今までは水道の水と思いよったけれども。その水道の水を、これは神様が恵んで下さるお水であり、神様の是は御神水であると思え。是は牛やら馬じゃ思えんです。
 だからある人はですよ、そげなこつ、やっぱ水道の水じゃないかと、屁理屈を言うて、思おうともしない人があるです。それを思うたら、おかげになるんだから、思わにゃいかん。昨日の人が助かると云う事は、そう云う事でしたですね。そう思うたら助かるんだけれども、それを思おうともしない。そげな事言うたっちゃ、これは水道の水じゃないか、と言わずに、本当に、成程これは神様のお恵みのお水であり、御神水であると思うて、雅代ちゃん、明日から顔を洗うのぞと。
 そしたら薬もいらん、何もお願いする事はいらん。白くもがとれて、おかげ頂くだろうと言うて、お話した事を、そのまた子供にも話しました。確かにそうですよね、そう云う事の思えれる、思いようと、思おうと思えば、思えれるのが人間なんだ。人間の値打ちはそれなんだ、牛馬と違うのはそこなんだ。折角例えば朝参りをさせて貰う。朝参りのこの修行。是成程梅の花の信心だと。
 けれどもその折角梅の花の、はんとは信心をさせて頂いておるならば、その梅の花の信心の内容なんだ。その内容がです吾とわが心が拝めると云う事に楽しみを、成程拝むと云う事によって神と一体になれれる。成程おかげというのはこの有難いという心に頂けるんだと。成程信心とは神様を拝むというのじゃなくて、吾とわが心を拝ませて頂く稽古だと。自分の( ? )自分で、自分の心が拝みたい程しに、思えれる様な信心が育って行きよると云う事をです、楽しみに。
 その事を私は焦点にしたような信心であるならばです、愈々その梅の花の信心が生きて来ると思います。言うなら、朝参りなら朝参りの修行が生きて来ると思う。只苦し紛れに朝参りをしよるという、成程、それは心が伴うて居る様ですけれどもです。是は、桜の花の信心と、言うなら五十歩百歩。これだけ朝参りしよるけども、これだけ参ったばってん、おかげ頂っきらじゃったと言うて、パッと散ってしまう。そんな人も沢山あるのですから。だから願う焦点という物がです、様々な人間が。
 いよいよ無力である事が分かれば分かるほど、すがらなければ居られんから、すがりもしますけれどです。そのすがりもするけれども、もう一つ本当な焦点と言うのは、吾とわが心が拝ませて頂けれる様な、稽古の為に苦労をしておる。その為に修行をしておる。そういう信心をです、身に付けて行かなきゃならん。今日はその桜の花の信心と云う事を、苦労のない信心。
 梅の花の信心を、苦労が伴うた信心という風に聞いて頂きました。そのなら梅の花の信心だから、苦労してさえおりゃ、梅の花の信心だけれども。今度はその内容を問われる。その内容が、ただ苦し紛れに、こげな辛抱をしておるというだけじゃいけん。吾とわが心が段々拝まれて行く様な稽古が出けて行く事が有り難いから、梅の花の信心をさせて頂いておるという事であったら、愈々梅の花の信心が生きて来る、と言った様な事を聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。